ADRENIXのホームページをご訪問いただき有難うございます。代表の野口彰宏です。
アクション俳優になって人に感動を与えたい!
空手を活かした仕事をしたい!
世界で活躍したい!
ADRENIXは、そういう子供達のためのアクション俳優養成プロジェクトです。
アクション俳優を目指す子供達に、アクション俳優になる上で必要なことを共有し、世界中で思いっきり活躍してもらうためにADRENIXを設立しました!

私自身も、アクション俳優やスタントマンとして映像の舞台にたち、スタントコーディネーター、アクション監督とキャリアを重ねてきました。国内外のアクション業界に関わり、約40年間アクションのプロフェッショナルとして活動を継続しています。
小学生の頃から夢見ていた世界に飛び込み、こんなに長い間第一線で活動できていることにとても感謝しています。子供の頃の私のように、「アクション俳優になりたい!」という子供達のために、私が持っているすべての知識とアクション技術、どうやれば一歩でも早く目標達成ができるかを、惜しみなく伝えていこうと決めました。
私の子供の頃は、とても引っ込み思案で大人しく、「まさかこんな世界に入っていくような子には思えなかった」と、私の母親は未だに口にします。体が小さいことでいじめられたりもあり、あまりワイワイと友達と遊んだ記憶も多くありません。ところがある日、小学校の下校時に衝撃的なことが起こったのです。

小学校からの帰宅途中、田舎の並木に無造作に立てかけられた一枚の色褪せた映画のポスター。
その一枚の紙切れが、10歳の私の人生を変えました。
それはブルースリーの映画『ドラゴンへの道』。ポスターの中で、大男と戦う彼の姿に心を奪われ、気づけば私は、”自分もこの人のようになりたい”と願うようになっていました。しかし、私の住んでる場所はエンターテインメントとはほど遠い田舎町。時代は昭和でしたので、アクションに関する情報はほぼ皆無で、映画と雑誌のみでした。
映画で見た動きを覚えて帰り、何度もマネて、公園に行っては高い木の枝に向かって回転蹴りを日が暮れるまで練習していました。

長男として、アクション俳優という未知の職業を目指せるような恵まれた家庭状況ではなかったのですが、私の思いは止められなかったし、必ずそうなると信じて疑いませんでした。
毎日、腕立て伏せと腹筋、背筋を鍛え、ブルースリーの体型を目指しました。小学生でしたがそうなれると信じてました(笑)。
体中にアザを作りながら、自作のヌンチャクの練習も欠かせません。

中学生時代に突然沸いたアクション映画ブーム。見よう見まねでアクションの真似事をする日々を過ごし、高校では空手を習いながらアルバイトでお金を貯めて、やっと東京のアクションクラブの門を叩くことができました。
そこには、同じ夢を持つ仲間がたくさんいて、共に汗を流しました。夢に一歩近づいた瞬間です。
剛柔流空手を学んでいた私は、空手のシャープな動きや型を覚える過程がアクションと非常に相性がいいと感じました。
当時の空手の師範にとても感謝しています。
私は空手と自己流で得た技で精一杯の自己表現をし、次第に仕事を得るようになりました
最初の仕事は、映画のエキストラ。
所属していたアクションクラブが制作するアクション映画です。
初めての撮影現場では、映画で見たことのある海外のアクション俳優が多数出演しており胸が高鳴ったのを覚えています。先輩達は、その俳優達とアクションシーンを演じとても輝いていました。私は客席から選手を応援するエキストラ。「いけー!やれー!」などと叫びながら、(俺もあそこに立ちたい!)と心から思いました。
その後テレビの仕事や映画にも関わらせていただき、「とんねるずのみなさんのおかげです」では仮面ライダーをパロディ「仮面ノリダー」のジョッカーの皆さんの一員も経験し、映画「バカヤロー4」では、香港のスーパースター、ユン・ピョウとも共演しました。彼とは寒い屋外で焚き火を起こし、暖をとりながら話をしたことはとてもいい思い出です。
けれど、アクションの世界は楽しいばかりではなく、厳しいこともありました。
怪我をした時は、数週間、時には数ヶ月アクションができなくなります。当然その間は報酬が発生しません。痛みや恐怖と向き合う日々の連続でした。
「なぜ自分はここまでして続けているのか?」
そう問いかけたことも、一度や二度ではありません。
海外に出たのは24歳の頃でした。アメリカのロサンゼルスです。ここでもまた壁が。そうです、言語の壁です。
学生時代は英語の授業があったことさえも覚えてないくらい英語に興味がなく、海外にいくなんてこれっぽっちも考えていませんでした。突然、海外でスタントコーディネートの仕事をいただいた時に、大慌てで勉強し始めたくらいです。今では英語で仕事のミーティングができるくらいになりましたが、当時は日常のコミュニケーションもできない英語力でした。なぜそれでも仕事を依頼され実績を作ってこられたかというと、私には「アクション」という武器があったからです。身体で動いてみせる、ということで人を納得させることができたからです。その時、英語もできなくて説得力のあるアクションもできなかったら誰も見向きもしてくれなかったでしょう。
とはいえ、アクション俳優は”俳優”です。英語のセリフを聞き、英語で話し、英語でコミュニケーションを取る必要があります。世界で観客の感情を揺さぶることが私たちのミッションです。ストーリーが軸となり、それをキャラクターとして演じることができなければなりません。演技力と英語力は必須です。
私の場合は、スタントマンとしてのキャリアが長く、スタントの現場を通して英語でのコミュニケーションを学びました。もちろん英語学校にも通い、時間がある時には常にウォークマン(若い人は知らないでしょう)で英語学習のカセットテープを聞きながらの勉強もしました。その時は20代だったので「もっと早く英語の勉強をまじめにやっていればよかった!」と心から思いました。英語学習を始めるなら、若ければ若いほど効果的です。
私は壁を一つづつ突破していきました。
そして、観客が息を呑み、画面越しに拳を握りしめるその瞬間——
たとえ一瞬でも、誰かの心を震わせることができた時、自分のやってきたことの意味を知るのです。
私はこれまで約40年にわたり、数々の作品に携わり、国内外で経験を重ね、「いつか世界が熱狂するアクション俳優を育てたい」と願うようになりました。今までも日本人のスタントマンを海外作品に招き、共に作品を作ってきました。その中で、アクション俳優やスタントマンは、制作過程においてとても貴重だということも感じました。特に日本人の実直さや協調性には目を見張るものがあります。「ジョンウィック4」や「将軍」など、日本人アクション俳優やスタントマンを必要とする作品は今後ますます増えてくるでしょう。
今まで携わった作品全て、日本のアクション俳優やスタントマンは高評価を得て、生き生きと更なる挑戦をし続けています。
だからこそ私は、次の世代へ“この世界の扉”を開きたいと思ったのです。
田舎町で、正しいやり方もわからずにただアクションの真似事をしていた私の子供時代の経験は貴重だった、と今は言えますが、もしあの時、学べる場所があったら、、、とも思います。今はどこにいても情報が手に入ります。私のように遠回りをしなくても、どこに住んでいても、なんでも学ぶことができます。やると決めた瞬間から。
人生はトライアンドエラーの繰り返しです。修正のスピードが早いほど、目標達成も早くなります。今では動画撮影や編集を個人で手軽にできるようになり、自分の動きを分析、研究までできるのです。
あなたのやりたいことは何ですか?
夢は、思いが強ければ必ず叶います。私がそうだったように。
長くなりましたが、私の思いを書かせていただきました。
ADRENIXは自分自身の限界を知り、超えていくための「心」と「身体」の鍛錬の場。
そして、同じ志を持つ仲間と出会い、共に磨き合う場所です。
ADRENIXは、ただの技術習得の場ではありません。
この世界の楽しさと厳しさ、そして本物の達成感を、共に味わいませんか?
私たちは常に、未来のヒーローたちを待っています。
挑む覚悟ができたなら、ADRENIXでお会いしましょう。